過去写真集

 

 

「曽我どんの傘焼き」とは

鹿児島三大行事の一つ「曽我どんの傘焼き」は、鹿児島に古くから伝わる伝統行事である。

その昔、薩摩では「郷中教育」という独特の教育制度があった。

そこでは、子供達を「稚児(チゴ)」「二才(ニセ)」「兄(アニョ)」と分け、年下の者は年上の者に従い、年上の者は年下の者に教育をし、武士としての教養、人徳、武芸などを学び人間性を磨いた。

そこで主に、教えたものは、
1.「主君に対する忠」
2.「親に対する孝」
3.尚武(武術・武事により徳を尊ぶ)
で、あった。

子供達は「郷」ごとに集まり、身体を鍛え勉学に励んだ。

その教育の一環として「曽我兄弟の話」が用いられた。

「曽我兄弟の話」とは、敵討ちの話である。
二人が幼い頃、父河津三郎は工藤祐経に討たれた。
やがて彼らが成人し、父の仇討ちを成し遂げ時はすでに17年の歳月が流れていた。
建久5年5月28日のことだった。

その長きにわたり、親の事を忘れずついに仇を討ったことが、親への孝を教える教材として用いられたのである。

兄弟は源頼朝に随行して富士の裾野で巻き狩りを行った工藤祐経を討ち取り永年の大願を成就した。
その時、雨の降る中、傘を松明かわりにして陣屋を進んだという。

この故事にならい、「傘焼き」を行い、曽我兄弟の孝心を偲び青少年教育に資質にしようとしたのが「曽我どんの傘焼き」である。

薩摩では、旧暦の5月28日が近づくと、子供達が家々をまわり、古くなった唐傘を集めて、甲突川や磯の浜に持ち寄り、うずたかく積み上げ、辺りが宵の闇に包まれる頃火を放ったそうだ。

唐傘は防水のために油が塗ってあったためその炎は高く燃え上がり夜空を焦がした。

戦後、和傘が不足し開催を危ぶまれた時期もあったが、現在、鹿児島三大行事保存会が中心となり、毎年7月に開催されている。